読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

千文字屋

約1,000字で読書感想文(ほぼ毎週更新)

美しい日本語のこと・川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』

 

大きな鳥にさらわれないよう

大きな鳥にさらわれないよう

 

  美しい日本語とはどんなものだろうか。いや、思想的な事柄ではない。また、自分は母語である日本語以外の他言語に精通しているわけではないので、単純に読んでいて「良いな」「綺麗だな」と感じる日本語とはどういうものか、というお話だ。本書を読みながら、そんなことをずっと考えていた。
 結論から先に。美しいな、と思える日本語とは、簡単な語彙で想像力を強く掻き立てるものだと思う。この作品は、ざっくりまとめてしまえば人間が人間でなくなってしまうような未来において、人間や人間でないものが絡まり合って織りなす幻想譚なのだが、たとえば作中で、

母は何人かいて、少しずつ背格好が違っていたが、総じて似通っていた。ある時一人の母がいなくなり、かわりの母がやってきた。

という一節が出てくる。すわ何事か、となる。まずもって、母は何人もいるものではなく、唯一無二であるのが一般的だからだ。よしんば母親たちの集団(ママ友的な何か)がいるとしても「母たち」という表現は、誰の視点からなのかわからないという意味で違和感を含む。母親たちの集団が誰かにとっての「母たち」であることはないのだから。加えて、母はあるとき突然いなくなるものではないし、かわりの母が手配されるものでもない。繰り返しになるが、誰かにとっての母は基本的には唯一つのものであるからだ。
 とまあこんな具合に。この『大きな鳥にさらわれないよう』では、柔らかな筆致でとてもつもなく不穏なことが、いくつもいくつも書き連ねてある。読み進めていくと、心の中がざわざわして落ち着かなくなる。想像力が、空想力が掻き立てられ続ける。そんな自身の中の情動を感じながら、物語を構成する日本語のひとつひとつを見つめると、美しいなあ、綺麗だなあと感じざるをえないのだ。もうそうなってくると、タイトルの『大きな鳥にさらわれないよう』という言葉の連なりも、ふんわりと羽毛に包まれるようでいて、見たこともないほど巨大な鳥の影に覆われて、わけのわからないところに連れ去られてしまうような優しい不吉さを孕んだ、柔らかな呪詛にしか見えなくなる。
 小説かくあるべし、という議論は不毛なものだが、この作品は自分が「小説がこうあって欲しいな」と純粋に思えるかたちのひとつである。もちろん、そのかたちはたくさんあってしかるべきものだが。そして日本語を母語として日本語の小説を愉しめる幸せを、改めて噛みしめる。

惚れる変態のこと・星野源『蘇える変態』

 

蘇える変態

蘇える変態

 

 
星野源とか別に好きじゃないし」ってセリフは、ここ数年間でたくさん聞いた。というか、自分自身がそうだった。「別に好きじゃないし」と思っていた。よく知りもしないのに、サブカル系(あるいは文系)女子に人気があるヒトなんでしょ、あーはいはい、なんか流行ってるよね……と、分かったつもりになった上で忌避していた。流行を否定する自分カッコいい的な、痛いアレである。
 なのに星野源「沼」的なモノにハマってしまったのは、2016年に話題のドラマとなった『逃げるは恥だが役に立つ』と『真田丸』が、まずキッカケとして挙げられる。前者では主演、後者ではとても重要な脇役として星野源が出演していた。両役ともに、素直にとても良かった。良い役者さんに悪い人はいない(個人の感想です)。そこから『逃げ恥』の主題歌である『恋』を買って聴き、さらにアルバムの『YELLOW DANCER』を聴き、星野源オールナイトニッポンを聴いた。普通に良かった。素晴らしかった。ちゃんと知りもしないのに、適当に避けていた自分を心から恥じた。本当にすみませんでした。そうした流れの果てに、書店で『蘇える変態』を買うに至ったのである。
 80年代生まれである自分は、ずっと同世代の表現者に餓えている。同世代の表現者のコンテンツを楽しみたい、応援したいのだ(もちろん嫉妬も混じるが)。最近は少しずつそうした方が増えてきていて、嬉しい限りなのだけれど、星野源は自分が求めるそうした表現者の代表選手といえることに、本書を読んで気づかされた。アニメが好き、マンガが好き、サブカルチャーはリスペクトするけれど、そこだけにとどまらずポップカルチャー全般を称揚する。音楽家であり、文筆家である。……知れば知るほど、好きにならない理由はなかった。カッコいいし、尊敬する、できる。肩に力が入っていないのに、こだわりが無いわけではなく、流儀がちゃんとあることも、やっぱりすごくカッコいい、惚れる。
 結局、星野源大絶賛の内容になってしまいました……自分は今や、ただのファンに成り果ててしまったのでご勘弁を。ちなみにこの本の後半は、ガチで壮絶な命に関わる闘病記なのだが、何故だろう、そのヘビーな部分も含めて読み終えたときに、まったく押しつけがましくなく、ふっと背中をタッチされるような感覚で「さあ、頑張りますか」という気分にさせられる。新年一発目にこの本を読めて、良かった。

DQN義経のこと・町田康『ギケイキ』

 

ギケイキ:千年の流転

ギケイキ:千年の流転

 

 「平家マジでいってこます」
 帯の惹句である。まずこれに痺れた。それで買った。読んだ。
「『ギケイキ』(全4巻刊行予定)は雑誌「文藝」にて連載中です」
 全然知らんかった。途中、半分ぐらいまで読んだところで武蔵坊弁慶が鬼若として登場し、彼の出生出自が丁寧に丁寧に描かれているところで嫌な予感はしていたのだが、雑誌連載中のシリーズものの第一巻だったのか。それならそうと、巻数表記ぐらいはしてくれよ河出書房新社さん。
 ともあれ。
町田康訳の『義経記』」=『ギケイキ』である。源九郎判官義経さんの話である。そんなの面白くないわけがないじゃないか、という当方の期待は見事に裏切られなかった。だいたいからして「かつてハルク・ホーガンという人気レスラーが〜」という一文から始まる『義経記』なぞ、町田康にしか書けないだろう。
 おおよそ生まれの高貴なDQNでしかない九郎さんの「平家マジでいってこます」スピリットが、独特の町田節で描かれる。……まあそんな小説です。とにかく九郎さん(及びその周辺人物)が乱暴。すぐに犯すし、すぐに殺す。滅茶苦茶なことしかしない。では町田康が、自分のノリに合わせて適当にセンセーショナルな歴史人物をでっちあげているのか?
 それは……違う。
 2012年の大河ドラマ平清盛』は、最新の史学研究を元にリアリティを追求した結果、一部の視聴者から「汚い」と酷評された。平安期を題材にしたフィクションは「美しく雅びでなければならない」と先入観を持ってしまうから、そういった意見が出てくるのだろう。しかし実際のところ、美しく雅びな平安時代は一部の一部、ほんのごく一部の特権富裕層だけのものであるし、そもそも源平がしのぎを削った治承寿永の頃には特権富裕層は腐敗し、それ以外のヒトやモノやココロは荒廃しきっている。
 だから、である。この『ギケイキ』で描かれる無茶者DQNの九郎さんは、逆にリアリティのある存在なのではないかと読めるのだ。著者が、どこまでその方面(エキセントリックなキャラクターを描くことで、逆説的に史的リアリティを持たせること)を意識して執筆されているのかはわからない。実は何も考えずに、本能の赴くまま書かれているのかもしれない。いや、そんなことはさすがにないか。兎にも角にも、限りなく手荒なアプローチで新生させられた国民的英雄が、どんな鵯越を、屋島を、壇ノ浦を戦うのか……楽しみでならない。

不信に沈むこと・吉田修一『怒り』

 

怒り(上) (中公文庫)

怒り(上) (中公文庫)

 

 

怒り(下) (中公文庫)

怒り(下) (中公文庫)

 

 

 信用とは「信じて疑わないこと。確かだと信ずること。」で、信頼は「信じてたよりとすること。信用してまかせること。」で、信愛は「信頼して大切にすること。」だそうな。日本国語大辞典より。では、信じるとはどういう意味なのか。これは信ずると同義で「物事を本当だと思う。」こと。つまり、対象のことを「本当の本物」だと思い、そう思うことを本当だと思い続けることが、信じるということになる。言うは易しだ。「本当ってなんだ?」と疑い出すと切りが無いし、「なぜそう思い続けられるんだ」などと考え始めると泥沼だ。
 本作『怒り』は、他人を信じることが、いかに難しいかということを描き出した話である……というのが鹿爪らしい真面目な感想。ただそれの中で、より胸に迫ってきたのは「自分を信じられるのかどうか」という問いだった。相手のことを、本当とか本物とか、そう思っている自身のことを本物と思えるのかどうか?
 物語の主人公格の人物たちは、一様に、自分自身を充分に信じることができていない。そんな彼ら彼女らが、隣人を「信じられるか、信じられないか」という命題の前に立たされる。だから揺らぐ、グラグラ揺らぐ。苦しむ。懊悩する。
 社会で生きていこうとするときに、他者に対する信用やら信頼やら信愛が無いと、普通は生きられない。本当に誰のことも信じずに生きていくというのなら、きっと満員電車にだって乗れない。しかし、他人を信じるときに根本にないといけないのは、結局のところはまず「自分を信じる」という心なのだろう。だって信じると感じる心が信じられないのであれば、前提が成り立たなくなるから。であるならば、一番の地獄は「自分自身が信用できない」ということなのではないか。
 吉田修一の作品は、日常生活の描写(食事、睡眠、セックス)が清々しく生臭い。そんな臭い立つような情景の中で、「他人を信じられますか? 自分を信じられますか?」という問いがクルクル回る。気が付くと読み手もクルクル回らされている。ミステリ的に騙されるのではなくて、人の気持ちの中にゆっくり沈降していくような、そんな感覚だ。そして地獄へ落ちていく。
 別に答えは明示されない。というか、信じられるのかどうかという問いに、答えなんてない。ひとつだけ示される光は、一度信じられなくなっても、もう一度信じ直すことができるよ、そういう選択肢もあるんだよと、見せてくれるところなのだろう。