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千文字屋

約1,000字で読書感想文(ほぼ毎週更新)

不信に沈むこと・吉田修一『怒り』

 

怒り(上) (中公文庫)

怒り(上) (中公文庫)

 

 

怒り(下) (中公文庫)

怒り(下) (中公文庫)

 

 

 信用とは「信じて疑わないこと。確かだと信ずること。」で、信頼は「信じてたよりとすること。信用してまかせること。」で、信愛は「信頼して大切にすること。」だそうな。日本国語大辞典より。では、信じるとはどういう意味なのか。これは信ずると同義で「物事を本当だと思う。」こと。つまり、対象のことを「本当の本物」だと思い、そう思うことを本当だと思い続けることが、信じるということになる。言うは易しだ。「本当ってなんだ?」と疑い出すと切りが無いし、「なぜそう思い続けられるんだ」などと考え始めると泥沼だ。
 本作『怒り』は、他人を信じることが、いかに難しいかということを描き出した話である……というのが鹿爪らしい真面目な感想。ただそれの中で、より胸に迫ってきたのは「自分を信じられるのかどうか」という問いだった。相手のことを、本当とか本物とか、そう思っている自身のことを本物と思えるのかどうか?
 物語の主人公格の人物たちは、一様に、自分自身を充分に信じることができていない。そんな彼ら彼女らが、隣人を「信じられるか、信じられないか」という命題の前に立たされる。だから揺らぐ、グラグラ揺らぐ。苦しむ。懊悩する。
 社会で生きていこうとするときに、他者に対する信用やら信頼やら信愛が無いと、普通は生きられない。本当に誰のことも信じずに生きていくというのなら、きっと満員電車にだって乗れない。しかし、他人を信じるときに根本にないといけないのは、結局のところはまず「自分を信じる」という心なのだろう。だって信じると感じる心が信じられないのであれば、前提が成り立たなくなるから。であるならば、一番の地獄は「自分自身が信用できない」ということなのではないか。
 吉田修一の作品は、日常生活の描写(食事、睡眠、セックス)が清々しく生臭い。そんな臭い立つような情景の中で、「他人を信じられますか? 自分を信じられますか?」という問いがクルクル回る。気が付くと読み手もクルクル回らされている。ミステリ的に騙されるのではなくて、人の気持ちの中にゆっくり沈降していくような、そんな感覚だ。そして地獄へ落ちていく。
 別に答えは明示されない。というか、信じられるのかどうかという問いに、答えなんてない。ひとつだけ示される光は、一度信じられなくなっても、もう一度信じ直すことができるよ、そういう選択肢もあるんだよと、見せてくれるところなのだろう。